昭和50年09月05日 朝の御理解
御理解 第47節
「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん。」
おかげにならんと断言しておられる。ここんところが大事に頂かなければ、まだ御神慮を深く分からなければ分からないとか、だからこれは病気が治るとか治らないとかじゃない。ここで言われるおかげというのは、それは信心のない者、信心の薄い者、また手篤い者、皆薬を飲んで治っとる訳ですよね。あの薬は良く効いたと、いろんな矢張り薬があります。本当にまた良く効く薬があるんですよね。
ですから、薬れ祈れということは、薬れ祈れでも、只薬れ薬れでも祈りはなくっても、おかげというか病気が治るということの意味でなら、それをおかげというなら、これはおかげにならん事はないということが分かります。
だからここでは、病気が治るとか治らんということではない。いわゆる本当の意味に於いてのおかげです。だからこれは、必ずしも病気とか、治るとか薬とかということではない。私は昨夜お風呂に入っとりませんでしたから、夕べお風呂に入ったのは一時頃でした。それから休ませて頂いて、フッと気が付いて私は風呂場の電気は消して来たかな、いや消して来た様でもあり消して来ない様にもあるのです。
それでも確か消して来たごたると思うて、あの寝とりましたら、神様から寝ながらお知らせ頂くのに、釘抜を頂くのです。金鎚にもなりゃ、後の方でこう抜く釘抜があるでしょうが、あの釘抜を頂くのです。いわゆる、あれは金釘を打つことも出来れば、抜くことも出来るという金釘抜きですね。そこで私は、あいたこれは確かめて来なければいけないなと思ったんです。心に掛かるということ。心に引っかかるということ。
いうならいらんところに釘が出ておりますと、それに引っかけて、怪材をしたり着物を破ったりするでしょう。これは抜いとかにゃいけないのです。心に掛かるということ。それに昨夜は、私は寝んで、ああ電気は消したかな、いや消したごともありゃ、消さんごともある。ここへ引っ掛かったらね、私はなら夜中にそれこそ、寝とる間でもおかげを頂かにゃならんのですからね。寝とる間でも神様からずうっと、いうならばお夢の中にでもお話しかけて下さったり、御理解下さったりするのですから。
それに引っかかったら、そこにおかげが引っかかってしまうのです。着物を破ったり怪我をしたりするのですよ。信心ちゃね、本当に微妙です。またそういう微妙な心を使うことが、実は有難いのです。起き上がって参りましたら、電気はやっぱり消しとった。だから神様は、それを確かめておけということなんです。そうすると心にひっ掛からんで休めるでしょうが。その心に掛かるということがおかげにならんのです。今日の御理解でいうとどういう事になりましょうか。
もし私が心に掛かったまま休すんだら、これは薬れ祈れということになるでしょうね。私が起き上がってはっきり見極めて来たところに、心に安らぎがある。祈って薬を飲んでおるのだからという心に安らぎがある。安心がある。だからこれはね、順序の問題とか、そういう事ではないの。大体はね、薬を例えば、神様にお供えをして、そしてお取次を頂いて頂かせて頂いたから、必ずしもそれが祈れ薬れじゃあない。この祈れ薬れということね、信じてそれを試すということ。
信じて薬を神様のお恵の物として、それを信じて頂くということ。その辺の所を手前の所で頂きますとね、お届もせんなりに病院に行ったとか、お供えもせんなりにお薬を頂いたからいかんとか、と言う様な事をいうけど、なら形の上でお届をすればそれで良いのか、お供えをしてそれを頂けばそれで良いのかと。実をいうたらね、ここんところ合楽でいわれる五つの願いなど、なら本気で願って行けば薬だけならいらんですね。もうあの五つの願い願う様になさってもう三年になります。私はよう風邪を引きました。
ところがあの五つの願いをする様になってからこのかたとういうものは、私は一回も風邪を引いたことはないでしょうが。皆さんが見ておいでの通りです。腹が痛かったということもないです。以前はチョイチョイ腹はせいたから、繁雄さんに御迷惑を掛けました。けど、その腹の腹の痛むこともなからなければ、風邪一つ引く様なこともなくなった。それが昨日話したことでした。昨日は神愛会でしたから、先生方皆集まっておられます。だから、頭が痛いの、風邪を引いたのというのは。
実は恥ずかしいことだよと、本気で五つの願いをしとらん証拠だと、いうなら極め付けていえばそういう事になるのです。なら私が、何時風邪引くやら腹をこわすやらそれは分かりません。人間生身を持っておるし、凡夫の事ですから、何処にお粗末御無礼があるかは判りませんけど、その事を本気で願わせて貰う様になってから三年間風邪引きも腹痛を起こさんという事実を見て、如何に神様が祈り願ってあるかということを、神様を信じて願っておるからです。
だから、信じて願うことが祈れ薬れということです。神様を信ぜず、例えばいうのが薬れ祈れです。また、それを祈れ薬れであっても、信ぜずして、只お取次を頂いたから、お供えをさして頂いたから、その薬は祈れ薬れになっておるかというと、そういう事ではない。神様を信じて、お恵のものとして信じて、その薬を頂くということなのです。だから本当いうと五つの願いを本気でさして頂いとりゃ、この薬れ祈れとか、祈れ薬れということはいらん訳です。
けれども、今日は私はこれは薬とか祈るということではないという事です。おかげにならんといわれるところをです、断言しておられるところがです、いやあの薬を飲んだら良うなった。例えば下痢なんかする、ときにはわかまつというのがありましょうが、これはもう、てきめんにこれは治るですよ。その位に効く薬です。やっぱり只病気が治るというだけなら。
だから、ここで言われるところのおかげにならんというのは、病気が治るとか、治らんとかということではないということ。本当の意味に於いてのおかげということなんです。私はこの五つの願いと云う、これも夕べ此処に御祈念に出てきた時に頂いた事ですけど、五木ひろしという歌手がおりましょうが、五つ木ひろし、頂いてどういう事だろうかと思うた。これは私に五木と五つの木と書いて五つの願いだと思うたんです。皆さん、本気でなさらなければなりませんよ。五つの願い。
ええですか、先ず体の丈夫を願えということが一つ。家庭に不和のなきことが二つ。いよいよ子孫繁盛、家繁盛真実の御用が本当に出来る様に、御用が私用になってはいないだろうか、一つ足らない。もう一ちょ足すと五用、御用になる。それを私用を御用に思うておることはないだろうか。どうぞ神願成就の事ならば、神願成就の為の御用に使うて頂きたいというこの五つの願いというものが、本気でなされ、本当の意味が判って祈るときにです、これはもう大変に広いおかげが受けられるということです。
どうぞ体の丈夫を願うというてもです、只元気になります様に、只病気が治ります様にと言う様な、只これだけではないからです。最後にある、いわゆる神愛成就、神様の願いが成就することの為に、どうか体の丈夫を願うからです。どうぞ子孫繁盛、家繁盛を願うというても、家庭に不和のなきことを願うてもです、家庭の中に不和がある、自分の心の中が穏やかでないと云う様なことでおかげが頂ける筈がありません。家庭がぶっすりがっすり言いよる様な事ではおかげにならん。
私はこの五つの願いをする様になって、体の丈夫を願うからには、もうとにかく本当の意味に於いて食物は命のためにだけしか頂かんとこう決めた。夜食などというものは、昔の人はよく申しましたね、命を切り売りをする様にいけないといったんです。夜食というものは命を切り売りをする様なものなんだと。それでも矢張り私共の様に朝早うから晩の一時までも二時までも起きておる時には、矢張りラーメンなんと作らんかとか、おにぎりなんか作って来いと言う様な夜食を続けておりましたが。
体の丈夫を願う様になってからは、私は夜食というものを致しません。そりゃ一時までも二時までも起きとるときにはお腹がすかすかする時があるです。けれども夜食は致しません。だから、願うからにはね、やはりここのところの引き当てになる様な信心をしなければ駄目です。どうぞおかげ下さい、おかげ下さいでは駄目だと。例えば病人がどうぞ健康になりますようにと願うたって駄目だと。
健康になりましたら、その健康を神様に喜んで頂くために行使すると言った様なそこに一さつを入れられますとね、おかげになるです。ほら元気になった。ところが今度はその休んどるときには何でもなかったけれども、元気になったら途端に喧嘩するごとなったではいかんでしょうが。悪い方に行使するそうじゃいかん。家庭の不和がない。本当に穏やかな心であり、穏やかな家庭を作らせて頂く、そのことを祈り願わせて頂くためには、もう決して家内子供に至るまで責めると言う様なことは決して致しません。
もう私はあの五つの願い以来、決して責めません。どうして俺が言うことを聞かんか。これはもう責めるのです。だから、家庭が円満にいく筈です。だから風邪一つ引かん筈でしょうが。子孫繁盛家繁盛を願わん者はありません。そんならです、無駄使いどんしよってから、家繁盛子孫繁盛がある訳はありません。いうならば、どうぞ財産家にならせて下さいと願うとしましょうか。そして贅沢はする、金使いは荒いというなら、願いのこととは裏腹でしょうが。願うからには、やはりその引き当てがいる。
この五つの願いを五つ木ひろしというのはそういう幅広いおかげを受けられるということ。昨日の神愛会で私の話を聞いて頂いた。あとに西岡先生が司会をして、一人一人先生方のお話を聞きました。また問題のところ、分からないところの質問など、いわば質疑応答的なこともありました。 昨日は何時も神愛会に見える先生方が殆ど見えとりました。熊本、鹿児島、福岡、それから井出先生のおられる行橋からでも見えた。本当に先生方の一人一人の話を聞かせて頂ながらね。
本当に合楽に御神縁を頂いて、段々それが密になって來るということは、おかげを頂く事だと思わせて貰いました。昨日は私の話の終った頃、丁度福岡の宮崎先生が見えられました。先生今日が丁度御心縁を頂いて一年目でございますと。そしてね、その一年間の間のお教会の模様がです、とにかくいろんな活動が始まっている。生き生きとして来ている。今まで相当永い間のお教会ですけど、まだ壮年会もなかった、青年会もなかった。そういう壮年会が出来、青年会が出来、お家は継ぎ足しが出来てね。
楽室が出来たり客室が出来たりしてね、最近は若い嫁さん達のいうなら婦人会も出来ようとしております。今日も早う早うと思いよりましたけど、お参りがずうっと続いておって、こんなに遅うなりましたと云うて、一年間御縁を頂きましたその時分から、そういう生き生きとした働きが出来ていると発表なさっておられました。富永先生がいろいろ話しておられるのを聞かせて貰うて、私は思うた。
最後に私の話を皆さんに聞いて頂いたんですけど、どうして富永先生のところはあんなに素晴らしい、いうならば御比礼が立つのか、信者がああして素晴らしい信者が出来るのか。それは近所界隈の教会でも、やっぱり評判になる位あるらしいです。そりゃそうでしょう。ついこの頃まで本当にまあ布教所時代に、いうなら難儀の修行時代のこと皆が知っておりますから。
ところが、先生の信心はね、もうどこまでも働きの全てが神様の御働きであることを、此頃確信をもって、その確信が深うなって来られたのが信心の基礎になっておるからだと私は聞きながら思うたんです。どういう例えば、事柄が起こってきても、それは神様のお働きと言う事が分かってきたというので、確信が出来てきたのだと、どんなに例えば冷たい仕打ちを受けても、それはその人の仕打ちじゃない。神様の御働きだと分かって信じて、次の信心が出来ているからおかげになるのだ。
私はこれは昨日先生の話を聞かせて貰いよって本当にそうだと思うたんです。いうならば神を信じる事に於いて段々強烈な強いものが生まれてきた。永年の不況、なかなか人も助からん。小さいお広前で夫婦で一生懸命御修行をなさっておられるけれども、自分は体はもう日奈久の富永先生は死んだげなという噂を聞く程しに身体が弱られた。昨日もいうておられました。第一私の体のおかげを頂いておる事。
家内が事故を起こした時に、大変な事故だったけれども、その事故がもう一つ一つ急所が外れておることに、医者が驚く程のおかげを頂いた事。そこでならそういう事故一つでもです、神様のお計らいの中の事故であり、神様の御神慮の中に私が弱かったであり、もう年の暮れも迫った頃に今だかつてそういう冷たい人じゃなかった大家さんが、今年中にどうでんこうでん出て呉れと言う様な難儀な問題、難問題です、今はもう年の暮れというのに、さあもうというて出来る筈もない。
というてそうそう実力もない、金さえかければ何処でもあろうけれども、それも出来ない。そこで夫婦で当時の椛目に御神縁を頂かれたのが、まあ初めてじゃなかったでしょうけれども、それが初めて椛目とのつながりになった様に思うです。そりゃ難儀な事ですね。今頃そういう事をいわれて、そりゃどうするかと人間なら思うですけれども、神様にお取次させて頂いたら、富永先生おかげですよという事であった。そりゃ大家がとても冷たい仕打ちの様であるけれども、そりゃ冷たい仕打ちじゃない。
それこそ暖かい神様の御神愛の現れだと、例えば、冷たい時に降る雪の一片一片を顕微鏡で眺めると、それこそ幾何学模様、もう何処の誰それがこの雪をこの様な形式にしたか、作ったかの様にもう本当にです、もう年の暮れも間近かというのにです、さぁ出て行って下さい。今年中に出て行って下さいと言われるけれどもです、神様の切なるまでのおかげを下さろうとする働きであり、願いである。それが分かった。そういう冷たい仕打ちでも神様のおかげであることが分かったと云うのです。
富永先生の信心の根本、おかげを受けられる根本です。今合楽で言われる、どういう事でも御の字が付けて受けられる姿勢が出来て来られたということです。その頃から篤信の信者が一人一人出来てきた。もうあと何日かないというのにです、教会のために建てたであろうと思われるこじんまりした家ではあるけれども、教会向けの家が一軒見つかった。しかも日奈久の町の繁華街から一寸外れた場所も大変良いところであり、しかも一寸下がっておるから閑静であると云うことなんです。
おかげで年内に引っ越しが出来て、それこそ元旦祭を新たに頂いた。新しいお広前で仕えさせて頂いた時の夫婦の先生方の感動感激は大変なものであった。本当に神様の御神慮も分からずに、どうした冷たい大家じゃろうかと思いよったのが、あの大家こそが神様だということが分かってきた。もう一事が万事にその行き方なんです。神を信じて、いうならばね、祈れ薬れにすれば、おかげも早いというのはそういう事なんです。信じて祈るということなんです。
信ぜずして祈ったところで、お神様の前にお供えしたところで、お取次を頂いたところで信ずることが出来ない者が願ったところで大した事はない。その当時先生がいうとられました。毎日五、六人の求信者がありますというとられる。もうそれこそ、たまがる驚異的な事でした。昨日、鹿児島の安武先生が発表しよりましたが、本当に術ない事だな、切ない事だなと思いよりましたが、もうあちらに出られて何年にもなりましょうけれども、まあだ日に一人が二人あるかない位だといっております。
それを、ずっとお広前に勤めておるということは、本当によう辛抱するなと思いました。昨日はだから、先生にいう事でしたけれどもね、あんたが場合はね、学院を出てからすぐ行ってから教会修行をしとらんからね。そりゃ神様の御都合御神慮に違いない。さあ、学院を出た、布教に出た。どんどん人が助かるてんなんてん、というなら、それこそ有難さも何もあったものではない。今は本当にまあ、教会修行をさして頂いとる様なもんですよ。時期が來ればおかげになるよと話したことです。
ところが、その有難い事には月次祭には段々お参りが多くなったというのです。勿論金に不自由する事はなかそうです。物は買わんならん事もなかそうです。親教会には親教会、御本部なら御本部、合楽には合楽にちゃんとお供えが出来るだけのおかげは頂いて、日に一人か二人かお参りはあるけど、時にはお参りがない事もある訳です。しかし金光様の先生ちゃ大変な修行と思うね。
いわゆる本気で神様を信ずることの出来れる修行が、今安武先生の場合は出来ている時です。神様ちゃ問題ないなあと、自分一人奥さんがおりませんから、自分一人ですからね。本当にもう何と申しますかね、孤独感というかそういう寂しさが、もう本当に押し寄せて來るように、夜なんかあるだろうかと思うです。それでもやっぱり辛抱しているのです。そしてそこに分かっておりますことは、神様がこの様に問題のないという働きを実感しておると、いうなら神様を信ずる事が出来るという修行を今しておるのだと。
同時に私は富永先生のお話を聞きながら思うことは、神様を信じて疑わないという、そこのところを起点としてです、その後に於いての先生の信心振りというものは、神様に信じられる行き方を本気で求め続けて行っておられる事であります。御教えにあります、神を信ずるものは多いけれども、神から信じられる氏子、これはもう徳の世界です。神様を信じて疑わない信心が出来てきた。それからはです、神様を信ずる世界、合楽の信心を頂く。親先生を頂くということは、もう命がけだと言ってます。
本当にそうだろうと先生の信心振りからそう思うです。いよいよ成行きを大事にして、全ての事を御事柄として頂く。そしていわゆる信心辛抱し抜かせて頂く。そこに神様の御信用が伴うて来ない筈がない。先ずは神様の信ずるところから発して、それから神様に信じられる、このいわば信心が段々出来て参りまして、いうならば五つの願いの精神というものが分かって、そして五つの願いが本気で出来れる事の為に健康が約束され、家庭円満が約束され、子孫繁盛家繁盛が約束されることになるのです。
そして最後の願いであるところの、そして神様のお役に立ちたい立ちたいの一念がその修行の全部になっておるのですから、神様の御信用を頂かない筈がないと、いうなら五つ木ひろしである。もういよいよ広うなって行く事でしょう。いよいよおかげの範囲が広く大きくなっていくことであります。今日はこの四十七節、これは病人に対する御教えだけでないということを聞いて頂いた。そして祈れ薬れということは、信じて祈れということでなからなければいけないということである。
例えそれが祈れ薬れであっても、形だけの事であって真実の、例えば祈れ薬れであって、それでは最後に、それではおかげにならんと断言しておられる。病人が治るとか治らないと云うことではないという事です。例えていうならば、富永先生の例でいうならばね、お願いをして本当にギリギリに家を捜し出した。それこそ教会のために造った家の様な適当な家のおかげを頂くというだけではない、ということ。ここんところが分からねばいけんとですよ。
大家の冷たい仕打ちも神様の妙なる切ないまでの働きだと信じたところにです、家のおかげを頂いたというだけではなくて、いわゆる、もしもね、あん時に合楽に行ってから、おかげ頂いて家が見つかったというおかげだけならばね、今日ここでおかげにならんというのは、そういうおかげではないということ。病気が治った治らない、家から見つかった見つからない、そういう事じゃないということ。そのことによって神様をいよいよ信ずることが出来たということがおかげ。
これが本当のおかげだということです。おかげになるというのは、おかげにならんというのは、そういう意味でおかげにならんというのは、只病気が治ったというのじゃない。その病気を通して神様のいうならば、絶対愛を信ずることが出来たというのがおかげなんです。そういうおかげがあるというおかげを頂かにゃいけん。こういうことではおかげにならんというておられるのはです、只おかげだけを頂けばと言う様なことではおかげをいくら頂いてもね、なら最後におかげにならんということを仰っとる。
私共が信心をです、本当に小さく産んで大きく育てろというそうですね、赤ちゃん。産まれる時は小さいとがほんなこつだそうな。本当に軽いそして大きく育てにゃいかん。信心もそうです。もう本当に夕べ私がです、夜中に風呂に入ってから、あら電気を消し忘れとったごとある、いや消したごとある、これが信心なんです。もうついとったちゃよかよかということになれば信心はおしまいです。
そしておつ追つ心の中にしておりましたら、神様が心にそげん引掛かるごとあるなら釘を抜いて來とけ、神様がもう消しとるとは教えなさらじゃった。消えとるとは教えなさらじゃった。お前の心にそげん掛かるならば、その釘を抜いとけということだった。だから行って見たら成程電気は消えとったけれども、私の心に引掛かっとった釘は抜けた。そこに安心があり、安らぎがありということでしょう。おかげの受け物とはそういう事です。心に悪いことがひっ掛かるそういう事には早うお詫び出て来にゃでけん。
そして許されたという気持ちで信心生活をさして貰わにゃ駄目だと。もうこの頃御無礼ばっかりして、お参りしようと思うとるばってん、お参りが出来ん。そういう心にひっ掛かっておるからおかげにならんのです。だから、心にひっ掛かっるという事は、自分だけが着物をひっ掛けたり怪我をするだけではなくて、人がその釘で怪我をする。自分の心にひっ掛かりがあると、信心というものはそういう小さい。そういう微妙なことにまで、心を使わせて頂くと同時にです、それこそ五つ木ひろしじゃないけれども。
五つの願いを本当に成就のおかげを頂く為にね、どういう修行をしても、その五つの願いが成就する様にその願いをせねばいかんです。皆さん風邪ひきとか、頭が痛いとかいう時は、恥ずかしいと思わにゃいかんですよ。ですから、これが只薬れとか病気ならです、今合楽でいう五つの願いというものを本気で受けられ、もう祈れも薬れもいらんということです。病気の事だけには。けれども、この四十七節はね、だからこれは、病気とか薬だけのことではない、ということを今日は聞いて頂いたですね。
どうぞ。